佐藤 暢治 教授
大学院人間社会科学研究科
国際教育開発プログラム
佐藤 暢治 教授
専門分野:言語学
中国奥地で現地の青年と辞書を作り上げ
消滅の危機が迫る言語を記録する
言語は文化の多様性を示す指標であり、人間の可能性
私は言語学が専門で、特にモンゴル系の危機言語を研究の対象としています。言語というものは話者がいなくなることで消滅していくものですが、それは遠い国の少数民族の言語で起こっているとは限りません。私たちになじみ深い方言にも、言葉の消滅は見受けられます。例えば、広島方言には、標準語の「雨が降っている」に相当する二つの表現があります。
「雨が降りよる」は今まさに雨が降っているという意味で、進行を表します。「雨が降っとる」は、現在雨は降っていないが、路面が濡れているような場合に用い、結果を表します。わずかな語尾の違いで微妙なニュアンスを伝える広島方言ですが、広島に住んでいる人にこの二つの違いをたずねても正確に答えられない人が増えています。標準語にない地域特有の表現は、現代の広島では消えつつあるのです。
世界では多くの言語が消滅の危機を迎えており、言語学者の中には21世紀には現存する6000~8000の言語が半減すると言っている人もいます。英語や中国語など社会的影響力の強い言語を運用できるとビジネスなどで有利になるため習得が進みますが、反対に、使用人口が少ない言語は仕事上生かせる可能性が小さいため、受け継がれなくなるのです。
言語が消えるというのは文化が一つ消えるということであり、ひいては文化の多様性が失われることにつながります。人間の可能性を狭めるこの危機を回避するため、言語学者は言語の社会的・文化的状況を調査し、記録しています。
謎が多い保安語を研究するために中国奥地へ
モンゴル系の言語である保安語は、中国の西北部・甘粛省臨夏回族自治州に住む総人口約2万人の少数民族・保安族が母語としていますが、中国語を日常的に話すようになったことで民族の言葉を使用する若者が減少しています。
モンゴル語専攻だった学生時代に「中国の奥地で変わったモンゴル系の言語が話されている」と聞いていた私は、周辺地域でも特に研究が進んでいなかったこの言語に興味を持ちました。保安族が暮らすのは、日本を出発してから現地に到着するまでかつては丸3日もかかった中国の山岳地帯です。言語学者が足を踏み入れないどころか、外国人の立ち入りさえままならない状況でしたが、現地に向かい、好奇心の赴くままに研究を始めました。
実際に現地の人が話す保安語を聞いてみると、モンゴル語とはおおきく異なります。どのような歴史をたどったのか判然としない保安語の全体像を把握するために、まずは語彙を書きとめ、文法体系を把握する作業に移りました。
現地の青年と10年の歳月をかけて辞書を完成
保安語の研究を進めていた2004年ごろ、保安族の有力者から手紙を受け取ります。そこには、保安語の辞書を作ろうとしている一人の若者に協力してほしいとつづられていました。言語学者は基本的に言語の記録に重きを置くため、辞書や文法書の作成を自発的に始めることはありませんが、社会貢献のため現地社会の要請に協力することは多々あります。
今すぐ研究に役立つわけではなくても、20年後、30年後の未来において、現地社会と研究者の双方に重宝されると考えて、喜んで協力したいと快諾しました。
以来、私と青年・馬沛霆(Ma Peiting)の10年にわたる辞書作りがスタートしました。「目」や「食べる」など日常で使用される頻度の高い基礎語彙から始め、次に民話や普段の日常会話に登場する単語・複合語まで範囲を広げ、母語話者に発音してもらっては発音を書きとっていきました。作業を進める中でとりわけ頭を悩ませたのが発音と文字の対応です。一般の人にも理解してもらうには、国際音声記号ではなく中国のピンイン式ローマ字を用いて辞書を作成する必要があります。保安語は固有の文字を持たないので、どの発音にどのローマ字をあてはめるか、保安語の話者がローマ字から単語を読み取り発音できるか、確認しながら地道に作業を進めました。特に母音については骨が折れました。保安語には母音が6つあるため、母音が5つしかないローマ字と簡単には対応させられないのです。ほかにも老人と若者で発音が異なることに気づいて一から調査をやり直したり、地域ごとに訛りがあるのでどの地域の発音を記載するかを吟味したりと、苦労が絶えませんでしたが、幾度となく壁を乗り越え完成に至りました。
現在、馬沛霆の希望により保安族の民話集の作成を始めています。社会貢献だけでなく言語研究の側面からもアプローチを続け、まだまだ謎が多い保安語の言語現象に関して解明を進めます。
フィールドに出かけるからこそ発見がある
言語研究を続けてきた私が大切にしているのは、文献研究に終始せず、フィールドに出かけることです。語彙を収集する際、調査中ではない食事の席でふと面白い表現が出てくることがありました。今では多種多様なオンラインシステムが登場し、聞き取り調査はそれで事足りるかもしれません。
しかし、現地に行って研究対象とする言語のネイティブスピーカーたちと膝を交えて話すことで、意外な発見に巡り合えます。本プログラムを志す学生には専門分野に関する知識や、国際社会に対応できる柔軟性だけでなく、フィールドに出かける気概を持ってほしいと考えます。
現在、研究室には日本語をはじめとするさまざまな言語に興味を持つ学生が集まっています。フィールドで実施する言語調査に参加してみたい、そんな思いを抱いている方はぜひ一緒に学びを深めましょう。